ダ・ヴィンチ・コード (上)
ダン・ブラウン, 越前 敏弥
ルーブル美術館で起きた殺人事件を発端に、キリスト教の歴史に秘められた重大な秘密が暴かれていくというミステリー小説。この「秘密」は上巻の最後のほうで明らかになるのだが、これがあまり面白くない。新約聖書正典の福音書を偽書と捏造だと断じ、逆にナグ・ハマディ文書などグノーシスの福音書をそのまま隠された歴史書だと言い切ってしまうあたりは、新約聖書正典の成立について多少なりとも知っている者から見れば噴飯もの。正典確立までに紆余曲折があり、そこに歴史から隠蔽された何かしらの出来事が数多く秘められているのは事実にせよ、それが「ピリポによる福音書」や「マリアによる福音書」に書かれているわけではない。
「イエスは神ではなく偉大な人間であった」という主張は何十年も前からリベラルな聖書学者が行っているものであり、そこにマグダラのマリアとの結婚を持ち出さずとも聖書学の世界では既に確定した“定説”となっている。しかし人間であったイエスを「神」に祭り上げたがゆえに、人間イエスの教えはキリスト教として2千年に渡って命を保つことになったのだ。(ただしその教えはイエスを神とする信仰によって大幅に歪められてはいる。)そうでなければ、ローマ帝国支配下のパレスチナに現れた貧しいユダヤ人預言者のことを、2千年後のわれわれがありがたがる必要などまったくなくなってしまうのだ。イエスが結婚してその子孫が現代まで生きていると仮定するにせよ、それが「神の子孫」ならありがたみもあるが、「2千年前のユダヤ人預言者」の子孫がありがたいのか?? そんなものが2千年間地中海世界を支配してきたキリスト教を、根底から揺るがすものになるのか??
つまり「ダ・ヴィンチ・コード」という小説が持ち出した「秘密」は、さほど目新しくもないし、衝撃的なものでもないのだ。秘密結社であるシオン修道会がマグダラのマリアやイエスについての秘密を守ってきたという話は面白いが、絶対秘密にしなければならないその秘密を、なぜレオナルド・ダ・ヴィンチが作品の中で暗号として明らかにする危険を冒しているのかという疑問も生じる。この本はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」や「岩窟の聖母」に秘められた象徴に言及しながら、なぜダ・ヴィンチがそんなものを絵の中に描く必要があったのかについては沈黙している。
暗号や象徴をちりばめた殺人ミステリーとして、この本がどの程度のレベルにあるのか、日ごろミステリーを読まない僕にはまるでわからない。しかしこの本が扱っている「キリスト教の歴史」というモチーフは、とてもまじめに取り合う必要のないレベルだと思う。(12/29)