イエスという男
田川 建三
日本でも有数の聖書学者である田川建三が、史的イエスに挑んだ代表作の増補改訂版。旧版を買いそびれているうちに絶版品切れになり、ああ悔しいと思っているところに現れた新版だ。この本に描かれるイエスは、史的イエスを取り上げた他のどんな本よりも生々しくリアリティがある。そのイエス像の特徴を著者は「逆説的反抗者」と呼んでいるが、要するに舌鋒鋭く体制批判する命がけの皮肉屋ということだ。世の中の動きから距離を取り、自分の身を安全なところにおいた上で、対象をシニカルに批評してみせる皮肉屋なら世の中にいくらでもいる。だが田川版のイエスはそうではない。イエスは対象の目と鼻の先まで近づいた上で、相手をグサリと突き刺すような皮肉を言ってのけるのだ。これじゃ相手に恨まれる、憎まれる。皮肉の矛先はいつだって体制側であり権力者だったから、こんな態度を続けていれば最後は殺されてしまう。そして事実殺された。
このイエス像に説得力があるのは、この像が著者自身の姿の投影でもあるからだろう。怒りっぽいイエス。体制による差別や搾取に憤り、宗教と政治でがんじがらめになった社会システムに異を唱え、今虐げられている者たちこそが「神の国」に入らねばならぬと説いたイエス。イエスの憤りや怒りは、そのまま著者田川建三が、自分自身の人生の中で抱いてきた憤りや怒りなのだ。著者はそれをまったく隠そうとしない。聖書の記述と自分自身の個人的な体験を堂々と重ね合わせてしまう。
そんな著者だから、聖書の中のどの部分がイエスの本当の言葉であり、何が後世の創作なのかを見極めるポイントも、最終的には自分が共感できるか否かというところに求めている。もちろんそこに学術的な裏付けも何ほどかはあるのだろうが、それにも増してまず優先されるのは「自分がどう考えるか」なのだ。「私がイエスの言葉だと思ったんだから、これはイエスの言葉に違いないのだ!」と言いたげなその態度を、学問的ではないとか、乱暴だとか批判することは簡単だと思う。でもどうせ「史的イエス」の探求など、どこかにそうした乱暴さがあるものだ。
「史的イエス」は「私的イエス」なのだ。人はイエスについて語る時、そこで自分自身について語っている。誰もが自分自身を投影できる大きさを、イエスという男は持っているということだろう。
イエスの個性について言うなら、これはあくまで「田川版イエス」だと思う。異論反論があって当然。でも著者が紹介する1世紀パレスチナの社会状況や、各種ラビ文書の紹介などは一読の価値がある。そこから読者が、自分なりの「私的イエス」を作り上げる手がかりが得られるだろう。(10/22)